なんでも母親の言いなりになる子。
になって欲しいなんて1mmも思ってません。
でも。
お風呂出てからしばらくLaQやって、歯磨きしてトイレ行って、やっとママとの絵本タイム。(寝かしつけが終わったら、私の短い自由時間がやってくる)
「さぁ、絵本一冊読んで寝よう!」
とベッドへ行くと、
「Rちゃんが(絵本)読む!」
…
…
いや、読めるのは喜ばしいことですよ。読みたい気持ちもわかるよ。
でもさ、こっから何十分かかるのさ。
あなた4歳だよ?今もう22時ね?
「自分で読みたいなら、遊ぶ時間に読んで?さっき、LaQしないで絵本読めばよかったでしょ。寝る時の絵本はママが読むって決めたじゃん。」
イライラして話す私を、娘は何も言わずに頷きながら聞いてます。
(こんなんじゃダメ。娘はただ頷いてるだけで納得してるわけじゃない。怒っても萎縮させてしまうだけ。)
娘の表情から途中で気付いて、『なんでママが読むのか、長い絵本は時間がかかる、遅い時間だと睡眠時間が足りないこと、もう寝る時間であること』を、落ち着いてゆっくり話すも、言えば言うほどくどくどしてしまい、娘はただ頷くだけ。
そして、絵本読み始めても楽しそうじゃない娘。そりゃそうですよね…。これじゃ娘の気持ちを抑えつけたままだな、と、絵本の途中から、私と娘で交代交代で読むことにしました。
読み終わって布団に潜りながら、
「Rちゃん、さっきママが読むって言ったのはね…」と改めて話すと、
「さっきの絵本は短かかったもん」
そう、確かにページ数は多かったけど、文字数は少なかったのです。
娘には娘の主張がある。でもそれを、私が怒ってる時に言い出さなかった=言い出せないように私がしてしまったことを後悔しました。
それから、私がくどくど言ったことをちゃんと理解しているということにも気付きました。
「これからは、寝る時間によっては、ママが読むか、交代交代で一緒に読むか、相談して決めようか。」
そう言うと、娘は「うん。」と返してくれました。
それから、『ブレーメンの音楽隊』の素話をし、「Rちゃん、鳴き声のとこやるね」と、楽しそうに鳴き声を上げ、『うれしいひなまつり』を歌ううちに、いつの間にか眠ってしまいました。
『こうだから、こうして』は、『(私が)こうして欲しいから、(あなたが)こうして』ということが多いですよね。そして親が子どもに怒ってる時って大体、親の思い通りにならない時。
それがダメ、だとは思いません。時間に追われ、仕事・家事・育児を熟すには、常に、仏の顔・聴く力・待つ姿勢、を発揮してはいられない。「肩も首も腰も痛いのに、仕事のタブレット入った重い荷物抱えて、抱っこして(16kg)と泣かれ、本当に辛い、神さまっているの?誰か助けて」と思うことばっかです。仕方ない、親は生身の人間だもの、限界がある。
でも、『わたしが、こうして欲し』くて、それを『子どもに、して欲しい』のである、ということを意識してると、ちょっと一呼吸落ち着ける気がします。だって、自分の思い通りに(自分ではない)他人を動かす、って、ロボじゃない限り無理だし。
- そもそも無理なことしてる
- コミュニケーションすれば、1が3にも5にもなる
イライラしそうな時は、コレ↑を思い出すことにします。その上で、生死に関わる場合は、無理な要求を絶対通す。そうじゃない場合は、無理な要求してみる>コミュニケーションしてみる>寂聴さんになる(仏寄りの人間)>仏になる(無)。最後はもう、死なないなら何でもいいの域。親は眠かったら、絵本の途中で寝落ちしてもいいですよね。(自由時間は無くなるけど)
頑張りすぎて倒れてしまっては、その方が子どもが寂しい思いをします。
もっと、身体も心も楽をしよう。